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永野護のクール・ジャパン論

Category : F.S.S.
F.S.S.とは関係ない話。

■なぜ永野護は苛立つか
私はF.S.S.の本編はもちろん好きだけど、作者のエッセイやインタビュの類も好きだ。

NTでF.S.S.が休載してもインタビュとか載ってればぜんぜん問題ないし。

永野護のエッセイやインタビュで面白いなと思うのは、音楽やファッションを通史でみているところだ。ある現象は理由もなくいきなり現れるわけではない。歴史的な所産として、必然として現れ、それが繰り返されて文化になる、という考え方で、ようするに永野は学校教育の地理歴史科のような視点で音楽もファッションも見ている。

私はこの作者ほどに音楽やファッションを愛していないので、作者の語りに素直に啓蒙されてしまうところがあるのだが、音楽やファッションの専門の人たちからみて永野の語りはどうなのか聞いてみたいところだ。ぜんぜん同意されなかったりして。というか永野自身がむしろ、各分野の専門家たちの認識に対して不満をもっているようだ。以下の一つめの文章は音楽について、二つめはファッションについて、永野はなかば苛立ちながら書く。

で、これらテクノとは別のコンピュータ・ミュージックが世界中を支配する時代となるのが’90年代である。これはもう説明もいらないだろう。’80年代「インベーダーゲーム」や日本のファミコンから登場したPCM音源のゲーム音楽である。スーパーマリオやドンキーコングは全世界の子供達からオトナまでを洗脳し、楽器すら消え、演奏もないその音楽が世界中の子供達に焼き付けられ、21世紀の音楽シーンをいまだに支配している。ゲーム音楽は本来の音楽シーンからは無視されているが、間違いなく日本の音楽が世界を支配した事実をそろそろ日本のミュージシャンや音楽好きも認めましょうよ。あんたがたほとんどがイギリスやアメリカの追随や物まねしかしてこなかったんだから認めたくないのはわかるけどさ。
(永野護『ファイブスター物語リブート』4巻p180 2011年)強調は引用者による



さらに’00年代に入ってファッションは、いやファッションシーンそのものが「東京ガールズコレクション」という日本の大小メーカーの集合体が世界を支配する時代となった。これに関して異論がある方はまさかいないと思うが、安くどこでも、それこそ渋谷の109から地方都市の駅前商店街にいたるまで、この「東京ガールズコレクション」の服が手に入るようになった。(中略)世界中のおしゃれな女の子たちが渋谷と原宿に目を向け集まってくるその時代というものはおもしろい以外何物でもない。
(永野護『ファイブスター物語リブート』4巻p195 2011年)強調は引用者による



この二つの文章は見事にシンクロしている。共通するのは、日本のサブカルが国内/世界の文化状況に決定的な影響を与えているにも拘らず、当の日本の文化の担い手たちがその事実を否認していることへの苛立ちである。ゲーム音楽も東京ガールズコレクションも、それぞれの業界で決して称揚などされていない。

個人的なことを言うと、東京ガールズコレクションが象徴するリアルクローズ(現実性のある服)というものを私はあまり好きではない。それに、たぶん永野護だって個人的な趣味志向のレベルでリアルクローズを肯定しているわけではないだろう。たとえば永野ファッションの代表であるファティマ服はそもそも高級オーダー服だ。F.S.S.ではリアルクローズはあんまり出てこない(あっ、でもワスチャは着てそう)。それにも拘らず、永野はきっちりとTGCを評価する。趣味嗜好ではなく文化や思想の問題として肯定するのだ。

私の不勉強もあると思うけど、ファッション愛好者でTGCをそのように全肯定した人って永野以外に聞いたことがない。永野のTGC肯定論には偏執的なまでの若者肯定思想が働いているのだが、それについては以前どこかにメモしたと思う。私などは「ボーカロイドが世界の若者に大人気」などと仮にニュースが報じたとしてもフーンとしか思わないが、おそらく永野なら絶賛するだろう(というか既に初音ミクを全肯定してたし)。そういうところが怖いっていうか、永野らしい。

■永野護の二枚舌
永野は上のエッセイの中でTGCやゲーム音楽の「世界化」について述べているわけだが、それ以外にもたとえばヴィジュアル系やゴスロリなど、端から「世界」など夢見ていないチープなカルチャーにかぎって容易に世界化してしまう。しかし世界に届いたことは国内では黙殺されるか、せいぜい「クールジャパン」な輸出品として政治利用されるだけだ。そこで永野は憤るわけだが、しかし仮にTGCやゲーム音楽が国内できちんと評価されたら、永野は何と言うだろうか。この作家のへそ曲がりな性格を知っている読者ならある程度、見当がつくのではないか。

そんなふうに絶えずカウンター・カルチャーである必要はあるんですよ。大人たちから、もろ手を挙げて受け入れられたら、それで終わりですから。日本の文化人が<日本のマンガとアニメは世界に誇れる>って言ってましたけど、あの瞬間から、たぶん下落が始まってますよ。
(『テールズオブジョーカー』24巻「永野護のファッション+ミュージック」2001年)



TGCやゲーム音楽を認めろと言った永野が、ここでは認められたら終わり、と言っている。スタンスが矛盾しているようにも思われるが、私からするとこの二枚舌のなかに永野のバランス感覚の正しさがあるように思う。映画『キャタピラー』や『実録・連合赤軍』の若松孝二が「国家に金を出されたらお終い」と言っていたけど、永野の言う「終わり」はそれに近い。若松がそうであるように永野もカウンターの人だ。そういう意味では、F.S.S.は文化庁メディア芸術祭とかぜったい受賞してほしくないなあと私は思う。

■日本賛美の危うさ
話を戻すけど、永野の語るゲーム音楽の世界化、TGC的ファッションの世界化という話には危うさもある。というのは、それが今日も「まとめサイト」などで繰り返される半端な日本賛美と紙一重だからだ。上に引用したエッセイ以外でも永野の語りはこの10年くらいの間、たびたび日本文化賛美論に向かっていく傾向にある。以下の一つめの文章は日本の若い人たちのファッションについてのもので、二つめの文章はDIR EN GREYのTOSHIYA(ベーシスト)へのメッセージとして書かれている。

 今なら、一番カッコよくてイカしているのは、代官山とか渋谷とか原宿をうろついている若い子たちだと思いますね。70~80年代って、ファッション誌を見ても欧米万歳とう感じだったでしょう。でも今、ニューヨークやアムステルダム、ベルリン、ロンドンのクラブにたむろしている最新ファッションの若い子を見ても、ダッセーって感じなんですよ。日本人の子たちの方が遥かにカッコいい。たぶん世界で一番カッコいいと思う。
 日本人の若い子たちも、みんなそれをわかっているんですよ。だからテレビとか本で、いまだに西洋至上主義を丸出しにしている連中を見て、内心笑っている。そんなことをマジで言っているのが逆に面白いって。この傾向は、ファッションだけでなく、ゲームとかコミック、メカデザインなど、文化風俗全般に当てはまると思いますね。
(『ダ・ビンチ』2004年11月号「永野護ロングインタビュー」)強調引用者



その北米の少女達のブログとか見ていると感無量ですね。素直っつーか、何というか、日本でDir en greyを支持している子たちと同じように応援して、また、それ以上に日本のアーティストであることへのあこがれを感じる少女たちの多さに微笑んでみたりと。 思春期多感な年代のファンはどのジャンルのアーティストにとっても重要で、またそう言った世代に支持されることこそが最大の財産だと思います。
(DIR EN GREY『SHANKARA-breathing-』2009年)強調引用者



永野は一つめの文章のなかで日本の若い人たちのファッションが「世界で一番カッコいい」と絶賛し、二つめの文章では「日本のアーティスト」という属性にあこがれを感じる北米V系少女たちが出てきたことに喜んでいる。どうも永野のなかには、戦後の日本人にずっとあった欧米至上主義が薄まり、今では逆に日本のカルチャーが覇権を握っているような状況への感慨があるようだ(だから二つめの文では「感無量」と言っている)。その感じはちょっとわかる。ずっと孤独に西洋的なもの―たとえばパリコレデザイナーやジョージ・ルーカス―と戦ってきた自負のある永野にとって、日本の若者たちが西洋的なものを軽やかに乗り越えていったことは本当に嬉しいのだろう。

ただ、先に言ったようにこれらの語りというのは、一歩間違うと自国中心主義的なナルシシズムになりかねない部分がある。というか既に半分、そちら側へ足を突っ込んでいるようにもみえ、読者としてはやや心配になるところがある。まあ、永野の場合は一瞬で手のひら返しをする二枚舌のへそ曲がり人間なので、ウェブ上によくいる中国や韓国の自国中心主義を批判しながら「日本すげー」論に回収されちゃう人みたいにはならないとは思うけど。なので永野はあと何年かしたら、きっちりと手のひら返しして「日本のカルチャーなんてね、オレたち世界で大人気だと己惚れた時点で終わってたんですよ」とかなんとか言うと思う。

うっ、当初は永野のエッセイは面白いよね、ということを書きたかったのに、なんでこんな話になるのか。

というわけで終了。

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文化の創造者永野

これ、面白い考察ですね~
サブカル論的に文化は消え行く物~新たに生み出される物として永野氏が捉えている事を見事に抽出してくださいましたね。
その生滅のメカニズムが、底辺に広まる~表層に浮き出る~量的に飽和~消滅~新たに生まれる…と言う史的文化論として語られている事を明らかにしてくれたと共に、メカニズムの動力は、大人≒権威の認証≒メジャー化による過去化である!
と、永野氏が断じているようだと、明らかにしてくれました。
だから創造者は権威に認められたり、ましてやそれを望んだりしてはならないし、文化形成の出発点たる底辺≒若い人達に受け入れられなければならないと、永野氏が考え続けている理由が見えた気がします。
ヘソ曲がりなのは、反権威故なのだから、やっぱ許してやらなきゃダメですね~
パリコレレベルのデザインを発しながら、TGCを担う層を評価する…それはヒョッとすると、文化の創造者としての視点からの意見なのではないでしょうか。
長文失礼致しました。
いやホントに面白かったです。
ありがとうございます。

Re: 文化の創造者永野

勢いで書いた記事でしたが、なんだか上手く纏めて下さりありがとうございます。

>文化の創造者としての視点

これ以外にも、永野護には妙に意識の高い部分があります。たとえばインタビュの中で何度か「子供の頃、欲しくても買えない模型がたくさんあった。その悔しさがモチベーションになる。だから大人(企業)は子供(客)の欲しがるものを何でも与えてはいけない。だからオレも読者の欲しがるものを与えない(笑)」みたいなことを言っています。冗談めかしていますが、たぶん本気で言っています。フィギュアなどの商品があふれる現在に対して、「これじゃクリエーターが育たない」と本気で危機感を持っているのだと思います。視点が高いというか。

>大人≒権威の認証≒メジャー化による過去化

永野がこれを嫌っているのは間違いないですよね。メディアミックスを(ほぼ)一切しなかったのも「過去化」を嫌ってのことでしょうし。

いつもレスありがとうございます
この回、貴ブログ中でもベスト5(自分比)なので何度も読み返しております
自国中心主義的か否か…な話ですが、ネトウヨは主にアジアを下位に置きたがる(見下すと言って良いでしょうね)のに対し、永野氏は日本が'文化面で'世界をリードしている現状を誇らしく思っている
文化面で特に西欧依存的だった日本が、遂にココまで来たじゃん、と、自分を含めたクリエイター達へエールを送っている
つまり方向としては、他国を落とす事で自国を持ち上げるのではなく、西欧と同じレベル(オリジナルを生み出せる国として)上がって来た…と捉えているように思います
世界とタメ張ってける文化を持ててるっ今の日本て、なんか、中学生の頃あこがれた地元先輩バンドのミュージシャンと、歳食った今は同じステージで一緒に演奏出来てる喜び…みたいな物を感じちゃうんですよ
『あの曲だったら今や俺の方が上手く弾けるぜ!先輩~』みたいな
だから自分もTGC評価しますね~
やっと先輩とタメで喋れるぜ~
単純に、そんな嬉しい気分を永野氏口調で語ってるだけだと思うんです
危ういって事では危ういんですけどね

Re: タイトルなし

すみません、しばらくブログから離れておりました。

ベスト5ありがとうございます(笑)。
私自身も忘れた頃に自分の記事を読み返すと面白かったりします。

永野の態度がネトウヨ的な「見下し」と違うというのはその通りだと思います。読者としても見下してほしくないですからね。

>単純に、そんな嬉しい気分を永野氏口調で語ってるだけだと思うんです

そうですね。特に文中に引用したディルアングレイの本の中では、ディルファン向け受注生産本ということで本音が出やすかったのか、永野は「微笑んでみたりと」とか「感無量」とか言っていて、仰るようにすごく嬉しそうなんですよね。
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