「花の詩女」再上映

2017年6月、「花の詩女ゴティックメード」が全国で再上映。 https://www.dreampass.jp/m342768

【宮城県:6/24上映】
【千葉県:6/24上映】
【千葉県:6/24上映】
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【広島県:6/25上映】
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【熊本県:6/25上映】
【鹿児島県:6/25上映】

システム上、一定数のチケットが売れなければ上映が成立しない。自分の地域以外もどんどん拡散させてどんどん宣伝しよう。今のところ苦戦しているのは長崎、熊本、鹿児島あたり。

一回見た人もまた見よう。見所はカーテンコールやGTMカイゼリン以外にもいろいろある。たとえば岡田斗司夫も驚愕した「キャラの自然な足運び」。永野護が動画17万枚を費やして一体なにを描こうとしたのか、フラットな状態でもう一度見ておいて損はないと思う。

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(12/21更新)F.S.S.のデータベース主義について

Category : F.S.S.
2013年12月08日更新
2013年12月21日更新
■ F.S.S.と平等

瀧波ユカリによれば、F.S.S.本編ではキャラクターが年齢、性別によって差別されておらず、平等に描かれている、という。

 ミラージュ騎士団の男女構成・年齢構成を見ても強さと性・年齢に相関関係がないように、F.S.Sの世界では女子供老人が(社会的な)「弱さ」の象徴として描かれることはありません。
『F.S.S.トレーサー2』瀧波ユカリ「すべての“平等〟が、ここにある」)


なるほど確かに、F.S.S.にはデプレッサー・ビート・アトールやマキシマム・ハルトフォラスのように強い子供たちや、剣聖慧茄・ダイ・グ・フィルモアや強天位アビヱン・ヒートサイのように強すぎるおばあさん・おじいさんが登場する。青年期、中年期の若い男性騎士だからといって武力的に安泰というわけではない。ではなぜF.S.S.は「平等」なのか。その答えはたとえば、作者の以下のような自己言及のなかにも示されている。


―第4巻で新しいことをやって、第5巻に入るわけですね。反応はどうでしたか

さすがに慣れきった読者というか「誰もぜんぜんびびんない」「なんでこんなに冷静なんだ」みたいな。素直だけど混乱してない。本当にみんな沈着冷静でしたね。読者からきたハガキの中に「『ファイブスター物語』って何でもありの世界ですからね」って、お前が書くなよって(笑)。
(『テールズオブジョーカー』16巻インタビュー)強調引用者


F.S.S.ほど作者による自己言及、自註、自己批評の多いマンガもないわけだが、読者がファンレターで「何でもあり」という言い方をしたのは、それだけ作者自身が「F.S.S.は何でもあり」という自己批評を繰り返し述べ、読者を啓蒙(というか洗脳)していることの証拠でもある。早いものではF.S.S.第1巻の後書きで「何でもあり」「ゴッタ煮」という言葉が出ているのが確認できる。

作者が自覚的に用いる「何でもあり」「ゴッタ煮」という考え方は、言い換えれば「平等」の作法である。そのことについて話をあっちやこっちに飛ばしつつ、メモしておく。


■ 剣聖ビザンチンのデータベース的装い

剣聖デューク・ビザンチンの装いが古今東西の服飾様式を「ゴッタ煮」にしたものであることについては以前、記した気がする。それぞれの意匠(マゲ、エリ巻き等)のもつ歴史性は無視され、ただの要素にまで分解された断片と断片が組み合わされている。それってなんだか、東浩紀が言ったデータベース論を髣髴とさせる。東は「デジキャラット」のキャラクターを例に、あらかじめデータベースに登録された断片的な萌え要素(猫耳、メイド服など)の組み合わせでキャラクターが成り立っていることを示したのだった。たしか。ビザンチンの装いは、東ふうに言えばデータベース的だということになるし、永野ふうに言えば「ゴッタ煮」の「何でもあり」ということになる。

歴戦のF.S.S.猛者ならば、ここで作者の以下の一説を思い出すかもしれない。


太陽星団はこの地球のあらゆる文化形態を持ち、あらゆる様式をかざしています。もう一度言っておかねばなりませんが、私は何もこれらの国を描くことによって、地球の特定の国家、宗教、歴史、政治を批判するつもりは一切ありません。ですから、わざとひとつの国には、複数の国家のイメージを持たせてあります。
(『ファイブスター物語』1巻「あとがき」)強調引用者


ジョーカーの一つの国家には、地球上の複数の国家のイメージを混ぜ合わせて与えてある、と1987年当時の永野は語る。この発想が剣聖ビザンチンのデータベース的コーディネートと同期していることは言うまでもない。永野はここで、データベース的な国家デザインの理由として、宗教や政治などのイデオロギー闘争から逃れることを挙げている。面白いのは、データーベース主義というものが、そのような政治的な問題をクリアするための手段であったと同時に、永野ファッションのデザイン上の技術でもあったということだ。その例としてビザンチンはあるし、そもそも初期の天照からして和+洋だ。そういうデザインは他にもなんか、色々とあったはずだ。(←探すのも検証するのも面倒になった)



以後、こんな感じで思いついたことを書き散らしていきます。
続きはこのページに追記していきます。


■ 言語

様々な要素をゴッタ煮にするF.S.S.のデータベース主義。その一例としてザンダ語というのもある。
F.S.S.第4話に登場するザンダ語は、日本語、英語、ドイツ語、ラテン語その他の言語をムチャクチャに混ぜ合わせたもので、意味不明の言語である。永野護のデータベース主義は、国家デザインやファッションのみならず、言語にまで及ぶ。


■ 人種とアメリカ旅行

この徹底的なデータベース主義はいったい、どこから来たのだろう。だれかインタビューとかで尋ねてくれないものか。その由来のひとつとして考えられるのは、1989年のアメリカ旅行である。永野はその際にアメリカの「懐の深さ」(『アウトライン』p10)を感じたという。そこでの体験が、旅行直後のF.S.S.第3話における多様な人種描写に繋がった、という(『F.S.S.リブート』3巻「永野護インタビュー」p356)。

海外経験をした日本人のありがちなパターンとして、「日本のことを何も語れない私」を発見しナショナリストになって帰ってくる、というのがあるけど、永野の場合はそうではなかったようだ。むしろ多様な他者のほうに関心が向かったようで、それって健全だったよねと今さら思う。もちろん第3話には日本人顔/アジア人顔としてのクー・ファン・シーマや泉興京巴がフィーチャーされはする。だが、いずれのキャラも日本マンガにおける美男・美女の類型からは外れた、現実的な描写であった。いや、でもファティマ・静は美少女類型の顔じゃないか、との反論はありうる。が、そもそもファティマなんだから類型的なのは当然でしょ、っていう逃げ道がF.S.S.にはあるのだった。日本人/アジア人といえど多様な人々のうちの一種としてしか扱わなかったところに、作者の相対主義的な倫理を感じる。

F.S.S.にあってはおそらく「天照」の名さえデータベースから拝借した記号にすぎない。そこにナショナルな何かは読み取れない。「天照」の名さえをも露骨に、ジャンク品として引用してしまうことによって、却ってそこにイデオロギーが発生してしまうことを防いでいる、と言える(ただ、永野がもし本当にイデオロギー闘争からの離脱を目論んでいたなら、やっぱり「天照」は微妙にヤバかったんじゃないか、とも思うけど。たとえば外国人の読者は、F.S.S.の「天照」がジャンク品でしかないことを認知できるのだろうか?)

そんなわけで、アメリカ体験がF.S.S.のデータベース的ゴッタ煮主義を加速させた面はあったとは言えそうだ。だが、その原点についてはやはり謎である。そもそも上に引用した第1巻後書きの時点でデータベース主義は表明されているわけだし。参考までに作者の以下の発言を引用しておく。

一話にほとんど集約されちゃってるんですけど、とにかく僕は万国博覧会とオリンピックが大好きな人なんですよ。いろんな国の人がいろんな文化を持ち寄ってそれが集合して、というのが凄い楽しくて嬉しいんですね。まったく違う様式のものが一つに集まってゴチャゴチャしているのは、なんて楽しいんだろうと。だから基本的には「この楽しさわかってきれよ」っていうのがまず発想の前提にあるんです。
(『季刊エス』2003年夏号「永野護インタビュー」p054)


■ コマ割り・固有名詞・F.S.S.FAQ

話は変わる。

マンガ批評家の夏目房之介が永野について、「両義的なところが資質的にある」と言ったことがある(NHK「BSマンガ夜話」)。夏目が例に挙げたのは第4話のAKD対シーブルのシーン(『リブート5』p226.P227にあたる)で、当該のページはコマの読み進めかたが2通りある。というか、どの順で読めばよいのか判らない。言うまでもないが、一般的にマンガではそういったことはありえない。物語の時系列が判然としないこのコマ割りをもって夏目は「両義的」と言ったのであった。本題とは関係ないが、ここで永野はマンガという制度から逸脱してしまっていることになる(夏目は「テイストと言っても下手と言っても同じ」と絶妙な言い方で評している)。既存の制度からの逸脱という点では、『花の詩女ゴティックメード』もやはりそうだった。で、永野の意図は判らないにせよ、このシーンではコマの進み方はどちらでもよい、ということになっている。両義的で、一つの正解がない。実はそのようなコマ割りは夏目の挙げた他にもいくつかある。

F.S.S.の「両義牲」≒「一つの正解がない」ということで思い出すのは、固有名詞の読み方だ。モーターヘッド=モルターヘッドとか、クローソー=クロトとか、ティーガー=タイガーとか、作者は好んで表記に揺れを持たせている。たしか作者はエッセイか何かで、「そもそも外国語を五十音で発音するのが無理!どう読んでもよし!」みたいなことを書いていた気もする。作中の固有名詞をフランス語読みでも英語読みでも何でもオッケー、というスタンスの作品って、けっこう珍しいと思う。もっともパテシアとパシテア、将子と桜子、ストーイとスイートなどは、単に誤植なのだろうが。

今はなくなってしまった、F.S.S.ならではの企画「F.S.S.FAQ」もまた「一つの正解はない」という作者の意識が反映されたものであった。なにしろ、この企画は作者が「正解」を一方的に解説するものではなかった。読者が読者にプレゼンするのである。F.S.S.FAQでは複数の解釈が併記され、共存する。作者はときどき現れて、「この解釈はアリかも」とか言って、エストテレカを配って去っていくだけだった。

以上のコマ割りの話にせよ、ネーミングの表記の揺れにせよ、F.S.S.FAQにせよ、「一つの正解はない」ということがF.S.S.では常に暗示される。つまり、F.S.S.って相対主義みたいな部分があるということでもあって、なるほどだから「モーターヘッドはポストモダン!」(単行本2巻オビ)なのか、とむりやり解釈できなくもない。神も仏も悪魔も共存するという徹底した相対主義がF.S.S.の根幹にあって、それってつまりこの国の人たちの宗教意識(クリスマス、お彼岸、初詣、八百万の神などなど)の反映である、とか何とか思わず言ってしまいそうになるね。


■ イデオロギーからの逃走?

すこし脱線。

上のF.S.S.第1巻後書きの話に戻るが、そこで永野が歴史、政治、宗教などから自由でありたい、と語っていることに、実は少し引っかかりを感じる。物語ってイデオロギーと無縁でありうるのだろうか。私には当時の永野の態度は「逃げ」に見えてしまう。

たとえば永野の先生でもある富野由悠季の『ガンダム』などは、少なくとも政治的に無垢ではない。富野は架空のSFと見せかけて、実は現実世界の政治を『ガンダム』に持ち込んでいる(ただし視聴者には架空のロボットSFとしてのみ受容されたわけだが)。

富野にせよ、永野の大師匠にあたる手塚治虫にせよ、自身の政治性をあまり隠さない人であったはずだ。それなのになぜ当時の永野護は政治や歴史から逃れようとしたのだろう?どなたか、その辺のことを当時のSFやオタク文化を踏まえて説明してくれないものか。私にはわからない。

そりゃ、F.S.S.という箱庭のごとき美しい物語を(ほぼ)一人でこさえたのだから、そこにキナ臭い歴史や宗教や政治なんて持ち込みたくなかった、というのはあり得る。せっかくの美しい物語がイデオロギーや現実によって汚されるのが嫌、みたいな。中途半端な「寓話」にはしたくなかったのかもしれない。

ただ、F.S.S.ではどうしたわけなのか物語が進むにつれて、イデオロギーからの離脱という目標は徹底されなくなっている。たとえば00年代の第6話がそうだ。物語ではボスヤスフォートがハスハを攻めるわけだが、その理由について作者は「戦争に大儀なんてない」と語っている。実際、物語中でも開戦の理由ははっきりと描かれないため、ウェブ上では読者が「なぜ戦争してんの?」と質問しているのがいくつか見つかるほどだ。大義なき戦争というのは、その当時の現実の戦争、つまりアメリカによるイラク侵攻が念頭にあったとしか考えられない。このときの永野は「現実」と「物語」をリンクさせていることになり、その点ではF.S.S.第1巻の後書きで語られた理念は後退していると言える。
(後で調べたら第6話は2001年5月号連載開始であり、911より少し早かった。まいいや)

私の個人的な希望としては、F.S.S.も物語である以上は「寓話」であってほしいな、というのがある。データベース主義でイデオロギーや現実から逃げんのもわけないんだろうが、それじゃつまらんBADでしょ、っていう。暴言として言うけど、物語は政治も含めた「現実」を反映すべきだし、できればもう一歩踏み込んで、「現実」を肯定するなり批判するなりすべきだ、とさえ思う。

だが、そういった私の個人的な趣味はどうでもよい。なぜなら仮にF.S.S.のデータベース主義というものが物語を「現実」から逃がすための方便でしかなかったとしても、データベース的だからこその「平等」(瀧波ユカリ)でもあるからだ。

続く。
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