「花の詩女」再上映

2017年6月、「花の詩女ゴティックメード」が全国で再上映。 https://www.dreampass.jp/m342768

【宮城県:6/24上映】
【千葉県:6/24上映】
【千葉県:6/24上映】
【埼玉県:6/24上映】
【大阪府:6/24上映】
【大分県:6/24上映】
【栃木県:6/25上映】
【愛知県:6/25上映】
【京都府:6/25上映】
【岡山県:6/25上映】
【広島県:6/25上映】
【福岡県:6/25上映】
【長崎県:6/25上映】
【熊本県:6/25上映】
【鹿児島県:6/25上映】

システム上、一定数のチケットが売れなければ上映が成立しない。自分の地域以外もどんどん拡散させてどんどん宣伝しよう。今のところ苦戦しているのは長崎、熊本、鹿児島あたり。

一回見た人もまた見よう。見所はカーテンコールやGTMカイゼリン以外にもいろいろある。たとえば岡田斗司夫も驚愕した「キャラの自然な足運び」。永野護が動画17万枚を費やして一体なにを描こうとしたのか、フラットな状態でもう一度見ておいて損はないと思う。

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永野護とビックリマンと麻原彰晃メモ

Category : F.S.S.
F.S.S.と関係ない話。メモ書き。

子供たちの心を虜にしたロッテのシール付きお菓子『ビックリマン』シリーズの「悪魔VS天使」編が開始したのは1986年のことだった。その年に永野護のマンガ『ファイブスター物語』が連載開始していることは偶然ではないと思う。どちらも壮大な世界を背景とした、神話のような物語であった。現在からすると、この80年代後半の「壮大な物語」ブームというのはちょっと感覚的に分かりにくいところがある。小学生はビックリマンに、中学生や高校生はF.S.S.や『ロードス島戦記』に、もちろん『ガンダム』も含めて、誰も彼もが「壮大な物語」に熱中していた。「物語」というものにあまり興味のない私だってF.S.S.はつい読んでしまっている。なんでそんなにこの種類の物語って魅力的なんだろうか。

ビックリマンとF.S.S.に共通するのは、壮大な神話的物語が断片的に描かれることでかえって読者に断片と断片の間を妄想させるということ(世界観消費)と、ほぼ一人の作者によって物語の背景となる世界が作られているということだ。F.S.S.は永野護、ビックリマンは反後四郎(ロッテ社員)によって世界が創造されている。いずれの作者もべつに誰かに頼まれたわけでもなかろうに、何かに憑依されたかのようにして「壮大な物語」を一人でこしらえているわけで、そんなふうに考えてみると、唐突だけど永野護が麻原彰晃にならなかったのはただの偶然にすぎないのでは、と思えててきてコワい。自分で作った「壮大な物語」をシールにして売ればビックリマンだし、専用規格の原稿用紙に描いていけばF.S.S.になるし、それを本当に神話として語ってしまえば教祖になるという違いしかそこにはない。私が自分のことを「永野信者」と記すのはただの冗談でしかないけど、本当の意味での「信者」になってた可能性だってありえたのだ。

ただ、永野護と読者の蜜月時期であった90年代でさえ、F.S.S.は意外と宗教っぽくなかったという印象はある。それは連載が再開する度にちゃぶ台返し的な新デザインを出したがるという作者の作家性によるものかもしれない(あと関係ないけど、永野のちゃぶ台返しって実は富野由悠季から受け継いだものという気がする)。もちろん度重なるちゃぶ台返しによってかえって信心を高めた読者もいたはずだが、意外と永野護の「おことば」を教義にして有り難がる読者って少ない(あ、それって私か)。

「壮大な物語」は人を惹きつける。関係ない話だけど、ヴィジュアル系音楽のジャンルでも「壮大な物語」は語られていて、90年代のいくつかのヴィジュアル系バンドは「壮大な物語」を含んだ音楽で支持を得ていた(誰も指摘しないけど)。たとえばマリスミゼルやピエロは長いスパンで語られる物語付きの音楽を打ち出したバンドだ。詩やインタビューを通して断片的に語られるストーリーをファンはおそらく必死で追いかけたはずだ。初期のディルアングレイはピエロより一歩遅れていた、とよく語られるけど、その本当の理由は、べつに演奏力や歌唱力の問題というわけではなくて、ディルアングレイが自作の「物語」を持っていなかったから、という点に尽きる。この現象は80年代後半の「壮大な物語」ブームが「エヴァンゲリオン」などを経由して10年遅れてV系の世界にやってきたのではないかと私は考えている。その後の00年代中盤からはDの「バンパイアストーリー」(後にゲーム化された)やベルサイユの「薔薇の末裔の物語」などの例がある。しかし、「壮大な物語」を楽曲やアルバムという形式に合わせて作り続けるのはやはり難しかったらしい。前述のどのバンドたちも物語をきれいに終わらせることはできていないようだ。もしこれらのバンドが、F.S.S.のような年表が付くほどの完成された物語を提示できていれば、Xやルナシー以上の革命となっていたかもしれない。

何の話だ。

今まで気にしてなかったけど、永野護ってインタビューやエッセイが多いわりに、オウム真理教については何も語っていなかったのでは? それって不自然じゃないか。オタク第一世代の作家や批評家はだいたいオウムについて複雑なものを抱えていて、なにがしか語っているのに。なにしろオウムは彼/女らの同世代によるオタク的宗教だから。永野はなぜ何も語らなかったのだろうか。ちなみに地下鉄サリン事件の1995年というのは、F.S.S.では第4話アトロポスが終盤に差し掛かっていた時期。
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