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まつ毛とアイシャドウのロボットについて(花の詩女ゴティックメード感想)

Category : 花の詩女
映画『花の詩女ゴティックメード』の公開からちょうど二年が経った。F.S.S.13巻の発売に併せてもう一度全国公開してくれないかな。

以下は公開当時に書いた『花の詩女』の感想文。

ネタバレある。






■F.S.S.未読の人にとっての『花の詩女』
まず最初に。もし『ファイブスター物語』(以下F.S.S.)を知らずに映画『花の詩女』を観て素敵な物語だと思った人がいるなら、ぜひF.S.S.を読んでみることをお勧めしたい。F.S.S.の読者が映画館へ何度となく通ってしまうほどこの映画に感動していることはウェブ上の感想やレビューを見てみれば判る通りだが、逆に、F.S.S.を未読の人たちがこれからF.S.S.を読めば、従来の読者が得られなかったような種類の感動が得られると思う。「あの顔」や「あのキャラの生き写しのようなキャラ」や「あのアイテム」や「あの動物」が意外な形で登場し、物語の中で絡み合うだろう。そして永野護が『花の詩女』で描いたべリンとトリハロンの交流の価値や意味はF.S.S.と併せることで別の色彩を帯びてくるはずだ。

レビューのなかには「F.S.S.という前提知識があればこそ『花の詩女』を理解できる」という内容のものが多いが、裏返せば「『花の詩女』という前提知識があればF.S.S.を理解できる」とも言えるはずだ。従来の読者が得たくても得られないような感慨に浸れるのだから、私からすれば羨ましいぐらいだ。

ただ、ウェブ上にはすでにF.S.S.に関するマニアックすぎるほどの情報(たとえばウィキペディア)がストックされているから、そのような知識を網羅しないとF.S.S.は楽しめないのではないか、と憂慮する人もあるいはいるかもしれない。だが、F.S.S.は知識などなくとも「チャンバラ漫画」(@いしかわじゅん)として普通に面白いはずだし、永野護が言うように「おとぎ話」として読めばよいのである。

反発し合い、理解し合ったべリンとトリハロンの交流はあの世界に何かを残せたのか、残せなかったのか。それは今後、F.S.S.のなかで描かれるだろう。


■永野護はただちに連載を休止しろ
新海誠がほぼ一人でアニメを完成させ、オタクたちから驚きをもって迎えられたのは2002年だった。あの作品を見たときに思ったのは、永野護は今すぐF.S.S.の連載を中止して、一人でアニメを作るべきだ、ということだった。『花の詩女』の製作が発表されたのは2006年だが、マンガ連載の期間や映画の企画に費やした期間も考えれば案外、本当に新海誠に刺激された部分があるんじゃないのかという気もするが、どうだろう。

恐ろしいことに最後の連載がに掲載されたNT2004年12月号から既に8年が経っているわけだが、ずっとずっと私はこれを待っていた。多くのF.S.S.ファンは長期にわたる連載休止を喜ばないが、永野には連載をやめてでもアニメを作ってほしかった。もっとも、休載期間が8年にも及んだことは想定外であり、安易に休載を願ったことは少し後悔しているけど。


■あんまり期待してなくてごめんなさい
永野護の自作自演アニメが見てみたいとは思っていたものの、正直に言うと、製作発表から公開までの期間を100%の期待で待っていたわけではなかった。不安を感じた要素は次のとおり。


  • 題名が「ゴスロリメイド」みたいで変
    ファッションオタクである永野護が、混同されがちなゴスとメイドの区別を知らないはずがなく、なぜ誤解を招きそうな題名をつけたのか不可解。しかも製作発表の2006年の時点で「ゴス」「ゴシック」という言葉は使い古された感もあった


  • 人物のデザインが永野護にしては地味め
    F.S.S.ではファティマスーツの光沢感が画面の華となるが、本作にはファティマが出ない


  • 物語そのものも地味そう
    F.S.S.内の魔導大戦という大動乱に比較して物語が地味そう


  • カイゼリンのシルエットがあまりに新しすぎて理解が追いつかない


  • 公開された予告編の動き方が一見すると物足りない感じ
    主役であるロボットが派手に動かず、見逃しそうなレベルの微細な動き方をしている


  • 騎士もモーターヘッドもファティマも出てこない
    本作がF.S.S.と関連があるとのアナウンスは一切なされていない

一方で期待できる要素もあるにはあった。たとえば予告編で流れていた主題歌が素晴らしかったことは嬉しい想定外だったし、なによりも予告編の中で永野護の絵柄がそのまま動いているという事実が感動的だった。映画館で永野護の絵柄がそのまま動くのを見られるだけで私は満足なのだ。たとえ『花の詩女』が、ほぼ同時公開の「エヴァンゲリオン新作」にほとんど全ての面で圧倒されることになっても、私は永野についていくぜ! そのような悲壮な決意で私は映画館へ行った。あの反則的なオープニングで映画が始まった瞬間、そのような心配は一瞬で吹き飛んだわけだが。


■感想
この映画を観ての永野監督への感想は、「身体が元気なうちにあなたの脳内世界をカラフルな動画として実現して下さってありがとうございます」に尽きる。永野キャラがどんな声でどんなふうにしゃべり、ロボットがどんなふうに動くのかというイメージを具象化してくれただけで信者としては昇天しかねないほどだ。何年か前、ファンサイトで誰かがF.S.S.の劇中シーンをアニメ風のタッチで描いていて、すごく素敵だった。それを見ながらF.S.S.がアニメで動く様子を何度となく妄想したものだけれど、今回、ようやく永野キャラたちが動く様を見ることができた。

F.S.S.というマンガはモノクロの紙面にも拘らず他のマンガに比べてカラフルな印象を受ける作品だ。モノクロでもカラフルなのに(語義矛盾だが)、今回の映画では全編を通して色をもったキャラクターが、しかも動く。映画を観終えてから『F.S.S.デザインズ』を開いたら、なんだか物足りない感じがしてしまった。これまでは美しいデザイン画を見ているだけで楽しかったのに、映画館で動くキャラクターたちを観てしまった以上は、動かないデザイン画に物足りなさを感じてしまう。困ったな。

せめて、次のF.S.S.連載は画面をアメコミのごときフルカラーに着色した状態で始めてほしいぐらいだ。まあ、キャラシートの色彩設計にさえ相当の手間を掛けているようなのに、それをさらに背景から何から全てにおいて行うというのはきっと無理だろうな。いや、登場キャラのキャラシートが既に出来上がっているのであれば、そのキャラシートの色データがそのまま生かせるのでは?ダメかなあ。


■鑑賞前の予想は外れた 
この映画は、あくまで永野護のまったくの新作であるとして(つまりF.S.S.とは無関係であるとして)発表されてきた。しかしとうとう、と言うべきなのか、映画公開の直前の永野護によるポッドキャストで、映画には永野ファンが驚くような展開があると匂わされることになった。それはつまり、本作の中に「F.S.S.関連の何か」が登場するという予告に等しかった。なので、きっと『花の詩女』にはF.S.S.よろしく未来回想的な感じでK.O.G.がバーンと登場するか、もしくはF・U・ログナーが「ここは通行止めだ」とか絶対に言うだろうと予想した。が、そういうシーンは残念ながらなかった。

映画を観終えてから気づいたことだが、F.S.S.の始まりが突然のロボット決戦であったことを踏まえれば、本作も観客の度肝を抜くようなロボット同士の対決(たとえばMHでもGTMでもないロボット同士とか)から始まるのではなないか、という予想もありえたはずだが、いずれにせよハズレだった。


■「オマケ」について
本作には私の予想したような形でF.S.S.が顔を出すことはなかったが、F.S.S.ファンが喜ぶような仕掛けはいくつか施してあった。あの「オマケ」こそがこの映画のハイライトであるという見解もあるようだが、それが仮になかったとしても私の本作への評価は変わらないだろう。多彩なファッション、インテリア、エクステリア、景色と空気、ロボットや巨大機械が駆動する様やその音、超人類のアクション。他をもっては代えがたいこれらの魅力が本作にはあった。『花の詩女』はF.S.S.(の一部)だったから良かったのではない。永野護だったから良かったのである。

いや、あの永野護らしい、ズルいやり方についうっかり感動してしまったのは確かだし、上映中に「あー!」「ぎゃー!」「わあ!」と声を出さずに何度も叫んでしまったのも事実だ。

しかし、あれらのシーンが仮になくとも、岡田斗司夫が語ったようにこのアニメでの描写はF.S.S.を読む上での素晴らしい参考書になりうるのだから、「永野ファン」ではなくて「F.S.S.ファン」にも十分に届く作品でありえたと思うし、後述するようにF.S.S.を知らない人にさえ届く物語であったと私は考えている。だからあの「オマケ」はやはり「オマケ」でしかないというのが私の感想だ。

F.S.S.は膨大な物語だが、そこに通低しているテーマは「歴史の連なり」といったようなもので、たとえばキャラクターの顔はその子々孫々にまで受け継がれている。このことを踏まえれば、むしろあの「オマケ」こそがF.S.S.以来のテーマを表現しているとも言えるので、そこは微妙なところだが。

マーケティング的にはあの「オマケ」を外すことは冒険だったかもしれないが、あ、でもマーケティングとか考えるならむしろ角川は大々的に「F.S.S.の外伝 映画化!」って宣伝するはずで、まさか観客にあの「不意打ち」を食らわせるためだけに宣伝効果を無視した告知の仕方をしていたのだろうか。


■殺人兵器の美しさ
本作には物語上のテーマの一つとして「殺人兵器の美しさ」というのがでてきた。物語にテーマがあるのはごく当然のことなのに、永野護の映画というだけでソワソワしていてテーマの予想なんて全然、していなかったから、このテーマが突如として提示されて何だかびっくりしてしまった。たしか何年も前の『モデルグラフィックス』(模型誌)だったと記憶するが、永野がインタビュだか対談だかで「戦車や戦闘機などの模型趣味には、美しい殺人兵器を愛でているという後ろめたさがある」という意味のことを述べていた。それが非常に印象に残っていたから、本作のテーマにそれを持ってきたのは良かったと思う。

物語全体にわたるテーマは「立場の異なる他者とのコミュニケーションと和解」といったようなものだった。韓国や中国との領土的対立が課題となっている現在にあって妙なリアルさを感じた。


■『花の詩女』は永野ファン向けか
ふつうに考えれば、本作は永野ファンやF.S.S.ファンにのみ受け入れられるような特殊な作品ということになるのだろう。だが私は案外と何も知らない人が見ても面白いんじゃないだろうかと思う。

永野が本作で描いたのは、ガイナックスのようなロボットアクションの気持ちよさではなく、ジブリのように子供にさえ訴えかけるような強い説話構造に根ざした物語でもない(しかし極めてシンプルな構造の物語ではあるのだが)。永野が本作で見せているのは、永野が作り出した世界そのものだ。アニメ界的には「世界」ではなくて「世界観」というのだろうが、辞書的な意味を尊重してここでは「世界」とする。

大塚英志が80年代(90年代だったか?)にF.S.S.を「物語消費」という言葉で説明したように、F.S.S.も『花の詩女』も膨大な物語(世界)の一部が偶然そこに描かれているという構造をもっている。勝手に時代が前後したり、親切な説明をすることなく全体のうちの断片のみが語られる物語というのは不親切である一方で、受け手の興味を惹くものでもある。とすれば、『花の詩女』は1989年の映画版F.S.S.と同じように新規のファンを開拓し得る作品となりうるのではないか。これがただの信者の贔屓目なのかどうか、ぜひ予備知識のない人たちによる感想を読んで確かめたい。


■まつ毛とアイシャドウのロボット、パリコレとしての『花の詩女』
永野護は経歴のほとんどをマンガ作品を描くことに費やしているが、本人はデザイナーであると自称している。さすがに漫画を描きながらデザイナーを名乗るのは無理があると思ったのか、シナリオや設定も含めてデザインしているから、と自分で注釈を付けていたはずだ。しかし私はごく一般的な意味での「(服飾)デザイナー」と言い切ってしまってもいい気がしている。

永野護が服飾デザイナーであるとしたら、『花の詩女』はいわばパリコレのようなものである。別にパリコレじゃなくてミラノコレでもいい。ようするに舞台演劇やハリウッド映画などではなくて、ファッションショーであるということだ。

ファッションブランドがショーで提示するのは、渾身のデザインとそれが生きるコンセプトだ。もちろんF.S.S.も『花の詩女』も魅力的な「物語」をもっているという点では演劇とも映画ともドラマとも小説とも同じなのだが、永野護にとって「物語」はあくまでデザインを生かすためのコンセプトの一つに過ぎないのではないか。つまり、「物語仕立てのファッションショー」であると考えた方が、いろいろと辻褄が合う。ヴィジュアル系バンドでいえばマリスミゼルが「ライブ仕立ての演劇」をやったのと同じである。

『花の詩女』がファッションショーであると考えれば、本作に登場する主役ロボット、カイゼリンには「つけま」のごとき豪快なまつ毛があり、アイシャドウが入っており、イヤリング、ミニスカート、ガーターストッキングという「おしゃれ」な出で立ちであることは当然だった。このロボットと関連があると思しき「ジ・エンプレス」(F.S.S.のロボット)もまた白のブラウス、エナメルのミニスカート、パンプス、レギンス(脚絆)という装いで、ともに永野ロボットの中でも最もファッション性の強いデザインがなされている。

上のほうで『ゴティックメード』という題名について文句を言ってしまったが、カイゼリンの白と黒を基調とした「ファッション」をこうして改めて確認してみると、「ゴスロリメイド」みたいな本作の題名はむしろ正しかったような気もしてきた。ファッション界的に言えば、もちろんカイゼリンのファッションは「ゴスロリ服」の定義にも「メイド服」の定義にも反するが、永野護という人がファッションにおける「定義」というものを忌み嫌っていることは以前も日記に記した通りだ。だからカイゼリンは「永野版ゴスロリ」もしくは「永野版メイド」であると理解して良い気がする。カイゼリンのデザインがゴスやメイドである可能性について考えてみなかったことは今になって悔やまれる。

と、ここまで書いたところで既視感があったので調べてみたら、永野本人が自身をファッションデザイナーになぞらえる形ですでに記してした(『F.S.S.デザインズ1』)。あ~。

さらに、自分で自分に反論することになるけど、永野はどこかでF.S.S.の主要なキャラクター(クローソーたち)のデザインは物語とともに誕生した、という意味のことを述べていたはずだ。ということは、永野護という人は「デザイナー」であると同時に(あるいはそれ以前に)「物語る人」でもあったのだろう。

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2014年11月01日追記:
映画公開当時の私はこうして長々と書いたわけだが、なぜ自分が『花の詩女』の「物語」に惹かれているのか説明されていない。自分の書いた文章に文句言っても始まらないけどな。映像や音響の気持ちよさに関してはともかく、あの「物語」がなぜ面白かったのか今も説明できなくて悶々とする。
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只今読み返し中

実は映画は見てませんので、ソコ絡みに言及出来ないのは悲しいのですが、「デザイナー兼物語る人」説を読み、脳内のトある回路がつながったものですから。
出典不明ながら(ナガノカレンダーかなぁ?)ファイヤーウィッチやミロク、オーバーロードなど彼が若い頃から描き続けているキャラクターが、ロボットより印象に残りました。
それらには彼が厨二な脳内で妄想し捲ったストーリーが付随してて、その断片的物語がコレまた私の妄想を掻き立てたのでした。
デザインにはソレを産み出した背景が有る。それが設定と言う物で、それが成されるには、設定が不自然で無いだけの説得力を持った物語が必要である。
妄想は次から次へと脹らみまくり、いつの間にか、単独の存在だったそれぞれのデザインや設定や物語そのものが、つながってしまったりする。
ああ!これって、FSSその物ぢゃん。
金田淳子サンでしたか…俺ファティマの妄想物語の事を書いてましたが、そんな背景~物語に裏打ちされたデザインであるからこそ、コチラも妄想に参加できる。
永野氏の作品に触れながら我が脳内に沸き上がる妄想のほとばしる感覚。アレが堪らなくて、追い続ているのかも知れません。
長文失礼致しました
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